2012年4月23日月曜日

Nymemories


『ニューヨーク回顧録』

― 音楽の坩堝(るつぼ)―

 洗練され、研ぎ澄まされて生き残ったニューウエーブ。伝統の名の下に培われた本当の本物。雑多ながらも、夜空の星や夜会の宝石のように光輝きそれぞれの存在がくっきり浮かび上がっている。それが僕がかの地に移り住むまで持っていたその街のイメージだ。

 だが、中にどっぷりつかってみるとそのイメージは想像もつかないほど歪な形に変形してしまった。これは僕自身の感覚的なものであり、同時に言葉での表現は不必要かつ不可能なのでこの場に記するのは避けるが、以下の文字のられつで判断してほしい。

 まず最初に感じたのは、音楽と生活が一体化していると言う点だ。これは日本以外の多くの国々で言われることかもしれない。しかし、ニューヨークのそれは群を抜いているかもしれない。とにかくその情報量が半端ではないのだ。音楽に関わらない生活などこの街ではほとんど不可能のように思われる。

 たとえば数多くの国からの移民が多いこの街では、週末になると必ずどこがの国の行事やパレードが街中のいたるところで行われる。路上や地下鉄、観光名所など人の集まるところ通るところではストリート・ミュージシャンがその演奏場所と生活の糧を求めて集まり、夏場にもなれば紙袋に包んだビール片手にラジオから流れるラテン・ミュージックに耳を傾ける中南米系の人々、おまけにこれ見よがしにボリュームを上げてラジカセかかえ、ラップ・ミュージックを撒き散らす黒人の少年達とまあ数え上げればきりがない。当然世界のショー・ビジネス、ミュージック・ビジネスの中心ということもあるが、その光景は異様だ、とても尋常だとは思えない。


カーター大統領は何歳ですか

 また、ニューヨークの80パーセントの人々が精神科医の診察の必要性があるといわれる。事実世界中のどこよりも精神科医の数が多いらしい。その精神科医達が他の精神科医の診察を受けるのも日常的だという。どこをどう取ってみても人間が生きていく為には刺激が強すぎる。だからこの街でたくましく生きて行けるのは、よほどの強者か鈍感な人間或いは世捨て人だけのようにも思われる。中途半端な人間、すなわちここで言うところの普通の人々は刺激に対してだんだん神経が麻痺してきて街全体が麻薬化し、居心地が良くなってきて最期にはこの化け物化したこの街に飲み込まれてしまうのである。そのような環境であれば、音楽家を含め多くの芸術家達がこの地に集まって来るのは、きわめて必然的なのかもしれない。

 とまあそんな所だから音楽情報の入り方も他とは違ってくる。たとえば、日本ではきちんと分類され最終的に我々の所へ入ってくるわけだけれど、ニューヨークでは一盛りナンボでどーんとやってくる。もっと具体的な仕事の例では、サルサの仕事だと言われて行ってみると、出された譜面をみて錯乱状態になることがあった。中南米の音楽のほとんどを網羅していたのだ、おまけに楽譜の表示がいかなるものであろうともカウントのやり方がイン・ツーであったりフォー・フォーであったりするのだ。それに加えて繰り返しの回数を記入していない曲もちらほら。そのときぼくは当然セカンドだったのだけど、リードのジェリー・ワイズ(には敬服した。奴はボスの指示を常に仰ぎながらノーミスで� ��事を終えたのだ。それもノーリハで。当然僕も同じ立場だったのだけれど、彼に全面的に頼っていたので事無きをえた。こんな化け物が存在するにはそれなりの土壌があるからで、要するに、条件反射するまでに情報処理能力を高められてしまうのだ。日本なら聞き手がほとんどの場合同国人だけれど、この地ではそうはいかない。当然それぞれの音楽のネイティブがいる。だから単に譜面づらを追うよりも感性を要求される。


喜び、ウィチタフォールズ、テキサス州のためにジャンプ

 僕のニューヨークの初期の活動から変わった仕事を取り上げてみると、まず在米ユダヤ系日本人の経営による日本食レストランでのビッグ・バンド、後は普通だがここまでがいかにもニューヨークらしい。ソーホーにあったこのレストランで毎週平日に出演していたこのバンドは早稲田のハイソでトランペットを吹いていて後にサックスに転向した関さんという人がやっていたバンドでだ。アルトの大森明氏やペットの大野俊三氏、それにピアノの三上クニ氏なんかも参加していた。日本人が中心ではあったのだけれど当然のごとく半数ほどで、たくさんの人たちが出入りしていた。関さんがリン・オリバーと交友があったこともその要因だ。

 次にラップ・バンドだ。僕がかの地へ渡った1980年代初頭はラップ・ミュージックがかなりの勢力で台頭してきた頃で、Run・DMCの全盛期でもあった。僕はハーレムそれも116丁目のセントラル・パークの真北に拠点を置いていたバンドに所属していた。面白いのは駅からの行き帰りは護衛付きだった。メンバーの一人が必ずそうしてくれたのだ。結局僕に日本の着物を着せてラップを歌わせるという企画が持ち上がった地点で退団した。もしかしたら僕は日本人のラッパーの元祖かもしれない。

 肉体的に一番きつかったのはパレードの仕事だ。前にも書いたように各民族の行事が年中あるのでこの仕事は結構絶えず、経済的にもおいしかった。よくあるのはキリストやマリア様の像を乗せた御輿の後を演奏しながらついてのし歩く仕事だ。夏場は良いんだが真冬に8時間もぶっ通しでやられたらもう唇を筆頭に頭の先から爪先まで神経がなくなる。それでもニューヨークのミュージシャンは当然のようにやってしまう。昨夜はティト・プエンテ、今日は朝から一日中パレードといった片肺で60代の有名なラッパ吹きもいたし、チューバをかかえて8時間、身長160センチ足らず50代半ば、本業はトランペッターの人もいた。


国家buldingは何ですか

 番外編としてはこんなのもあった。ニューヨークへ住み着いた直後のことだ。あるサックス奏者の依頼で演奏の仕事だと言われて車が迎えに来て何も知らされず乗っけられニューヨーク北部にあるユダヤ系のコミュニティ・センターに連れて行かれた。しかし楽器はいらないといわれぺらぺらの着物(ど派手な浴衣風着物)を着せられ実演販売の天ぷら職人に仕立て上げられたことだ。断ろうにも車がないので帰れないし、お金も必要だったのでしぶしぶやったが、何しろはじめて天ぷらを揚げたのでそれはひどい品物だった。それでも飛ぶように売れたのはどういうことだろうか。結局全部さばけたのだ。企画したのはユダヤ人の高校生だ。ぼくは彼らがアメリカを支配する理由の一端を見たような気がした。お金の為ならこのぐら� ��の詐欺行為(?)は平気でやってのける彼らが、エコノミック・アニマルとかつて言われた日本人と同様に世界中で嫌われるのは十分理解できる。彼らは子どもの頃から経済観念を身につける様に教育されまたそれを実践させられる。結局僕も客も被害者だが、僕がお金をもらい、客が喜んで天ぷらもどきを食べた(本当に!)ことでことは全部丸く収まった(?)。最終的に僕のちっぽけなプライドだけが木っ端微塵に吹っ飛んだ。

 ちょっとそれたので話を音楽に戻すが、様々な人種がいるのでその数だけミュージック・シーンがあるのは当然かもしれない。しかし視点を変える見方もある。たとえば演奏者として自国の音楽ではなく他民族の音楽に傾倒していくパターンである。つまり我々日本人のようにクラシックやジャズ、ラテン等の外来音楽を本国人に紛れ込んでその気になってやってしまうパターンだ。


 たとえば、上の写真はコロンビア系のサルサバンドのもので、中央左の赤いバンダナを巻いたのが僕でその左がジェリー・ワイズだ。サックスはキューバ人とプエルトリコ人、ジェリーはユダヤ系、僕は日本人、他はすべてコロンビア人だ。まさにニューヨークのラテン・バンドそのものだった。場所は14丁目のウエスト・サイドで別にどこの国のコミュニティがあるわけでもない。ただこういう所、こういうバンドで演奏していると、自分は何人で何の音楽をどういう目的でやっているのか全く麻痺してしまうことがよくあった。米国でありながら英(米)語の会話は皆無で話し掛けても半分は通じない。住民票なんてものがない米国でははっきりした数はいえないが、ニューヨークでの不法滞在者は200万人以上いると言� ��れている。そのうち中南米の人々の占める割合が最も多い。それゆえに音楽シーンに与える影響も大きい。

 人種混合は他にもある。あるホテルの大ホールで2つのバンドが客をはさんで交互に演奏したんだが、あちらはサルサバンドでそのものずばりの演奏をやり、こちらはフィリピン・バンドでポップスをやるといったものだ。そして客はというとアングロサクソン系の白人集団であった。それはともかく、ニューヨークでフィリピン・バンドに所属した日本人もめずらしいと思う。もっと面白いところでは、ロング・アイランドにあるロシア系移民の街にあるクラブだ。ここでは1950年代のアメリカン・ポップスを主にやった。ロシア人ミュージシャンに混じってポール・アンカの曲を演奏している日本人ジャズ・ミュージシャンの姿は如何なるものであろうか。

 でもよく考えて見ると、ジャズに命をかける日本人ミュージシャン達の姿は外からはどのように映るのであろうか。まあそんなことはどうでも良いか。

ある日の"Blue Note New York"
Kuni Mikami (Piano) Quintet
Mr.Oguro(Sax)
Takaya(Trumpet)

Vishnu Wood(Bass)
Leroy Williams(Drums)

ジェリー・ワイズ


ジュリアード音楽院在学中の17歳のときメイナード・ファーガソン楽団に参加。その後「B・S・T」の創始メンバーとなる。トミー・ドーシー楽団で6年間リード・トランペッターとして活動。レコーディングも数え切れない。カウント・ベイシー楽団にも参加した。

リン・オリバー

兄のサイ・オリバーのバンドを引継ぎニューヨークでも数少ない歴史的ビッグ・バンドを維持してきた。



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